ベリー・ザ・ドッグ・サイトColumn BackNumber



ベリー・ザ・ドッグ・サイト…コラム・バックナンバー


ノーリードの是非

犬を飼い始めると、理想の飼い主像なるものに憧れるものである。そして、出来るだけ近づこうと努力するものである。人によっては、それがテレビや映画の主人公だったり、有名人だったりするのだろうが、私にとってのそれは、ホームグラウンドの公園で顔なじみになった小柄な白髪の紳士であった。

物腰が柔らかく、誰彼の隔てなく接するその態度は、飼い主の間でも一目置かれる存在であり、彼がいることで自然と全体の統制が取れてしまう威厳も持ち合わせていた。決して年長者だからといった理由だけではない。その公園に行けば、必ずいらっしゃるという安心感もあったし、新米の飼い主にとっては、頼れる相談相手でもあった。彼の愛犬、牝のシェパードにしても、実にきちんと訓練が入っており、常に超然と構えていた。私も、いつかはベリーとこんな関係になりたいな、と心の中で密かに思っていたものだった。

そんな彼は、余程のことが無い限り、愛犬をリードで繋ぐことがない。恐らく目に見えぬリードで彼と愛犬は繋がっていたのだろう。こういった理想像を常に間近に見てきたので、犬をリードから放すことに対しては、私自身あまり抵抗が無いのである。そうかといって、決してノーリードを推奨しているわけではない。呼べば必ず戻る、興奮しそうになる前に犬を制御する、といった基本的なしつけと飼い主の目を持っていれば、ノーリードで犬同士遊ばせることに躊躇することはない、と思っているだけである。

もちろん犬の飼い主の中には、こういう考えに対して真っ向から批判する人もいる。社会通念上のモラルとしてノーリードがいけないとの基本に則り、曰く「小さい子供や犬嫌いの人に対する配慮が欠けている」、曰く「突発的な事故を未然に防ぐ飼い主の義務を怠っている」といった理由からである。中には、「犬は常にリードに繋がれて飼うべきものである」という意見すらある。最後の原理主義的見解を除けば、犬の飼い主の権利を向上させるためには、自ら襟を正さなければいけないという、まさに”正論”に基づく。

こうした正論を前にしてもなおリードを放して犬を自由にさせる行為を行う理由は、前述したように、犬の運動や犬同士のコミュニケーションのためである。従って、どんな公園でも、迷惑にならない範囲で、自然発生的に犬同士、飼い主同士のコミュニティが形成されていく。こうしたコミュニティで、犬同士の自由なふれあいを子犬の頃から経験させていくと、自然に犬社会での付き合い方を覚え、無駄吠えをしない、攻撃的にならない犬に成長していくといった割合が高いと聞く。特に生後一ヶ月ほどで親犬から離されるような子犬は、兄弟犬や親犬との接し方を勉強せずに飼い主の元へやってくるので、犬社会での経験が殊の外好影響をもたらすらしいのである。以上のような効用抜きでも、犬が楽しんでいるのを見るのは、飼い主にとって代え難い喜びでもある。

こうした効用は、おそらくノーリード否定派も認めるものであろう。従って、ドッグランなど、正式に認められた隔絶された空間においては、ノーリードの是非を問うまでもない。よって、”否定派””肯定派”互いに手を携え、ドッグランを正式に認めてもらう方に進めばよい。めでたし、めでたし、である。

しかし、事の本質は、違うところにあるような気がしてならない。散歩の途中に自分の犬がノーリードの犬に絡まれた嫌な経験をした方がいれば、ノーリードの犬の飼い主に対する嫌悪感を持ちつづけるだろうし、犬コミュニティにおいて犬同士の諍いが、飼い主同士のいがみ合いに発展する場合もあろう。こうした経験をすると、たとえドッグランが設置されても、遠巻きにノーリードを批判し、決して中に入ろうとはしないだろう。また、犬コミュニティに参加する意思決定を下すのは飼い主の方だから、コミュニティの持つ雰囲気如何で参加を思いとどまるかもしれない。悪しきムラ社会の中には、他を排除する傾向を時に見せるからだ。輪の中に飛びこめない方もいるだろう。幼い子供を抱える母親が、なかなか公園デビューを果たせないのと同じ構図だ。つまり、どこまでいっても人間の問題に帰結してしまうのである。

正規のドッグランが出来ようが、現状公園の片隅で周りに気を配りながら擬似ドッグランをやっていようが、要は社会性を持った犬に成長させればいいことである。我々人間側に大切なのは配慮であって、決して排除ではないのだから。

2000-02-07


Page Up [U]